チベット・コード 第二章 女の子の秘密 4 

方新教授は非常に落胆した。彼は元々徳仁翁から待ち望んだ答えが聞けると思い込んでいた。それは法器がグーバ族が守護している場所つまり、この村のさらに西にある無人区にあるという答えだが、結果として徳仁翁からは答えとはとても言えないような答えしか得られなかった。

徳仁翁はまた言った。

「だが、グーバ族が守護しているものが、その仏典と法具ではないのかとわしは疑っている。」

方新教授がにわかに興奮した。張立もおもわず手に汗握った。方新と張立の感情が徳仁翁の話の影響で揺れ動いている時に、卓木強巴はただボーッと座っていた。なぜなら彼の父は、紫麒麟について何の手掛かりも語らなかったから。卓木は紫麒麟以外のものにはほとんど興味がなかった。

 

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雑記  

ずっとチベットコードの翻訳を書いていますが、最近忙しくて書いていませんでした。すみません。

今日は、さきほど何気に訪問者数を見たら、5万人越えていたのでそのご報告です。

なぜかアメリカの方の訪問が多いです。アメリカ在住の日本人の方でしょうか。

それではまたぼちぼち書き始めると思います。

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チベット・コード 第二章 女の子の秘密 3

「あっ!」

方新まで目を丸くした。

「や・・・焼かれた!じゃ今のは・・・・」

徳仁翁は厳粛に言った。

「その通り。現在我々が見ることのできる寺は後世において再建したものだ。菩提経の記載によると、唯一残った仏教は、一つは岩蔵で還俗したニンマ教徒。もう一つは●(王偏に馬)、夭、蔵の三人が康区と拉欣喜に逃げて伝えたものが若干あるだけだ。甘巴強塘の●(王偏に馬)・釈迦牟尼、羅卓の夭・格葦廻乃、甲棋の蔵・纏賽などの人は吉祥曲沃日山で修行した。その後、三人は乞食に成りすまし、戒律を携えて一匹のロバに乗り異郷に逃げた。後隆盛期の始まりはこの三人と大きな関係がある。ニンマ派の学徒たちは三人の真似をして、乞食に成りすまし、痩せたロバに膨大な量のお供え物を何回かに分けて、岩蔵と聖地の境界にある仏具をより安全な場所に移した。」

「一体どこに?」

方新教授は心の中の興奮を抑えきれず、徳仁翁の話が途切れたのを見てすかさず尋ねた。

徳仁翁は頭を振りながら言った。

「経典にも詳しく書かれておらず、ただそこは東方の太陽が昇るのを見ることができず、また西方は太陽が沈むのを見ることができない。たが一年中陽光の明るさを浴びることができる所だ、という記載があるだけだ。一群の魂が忠誠な信徒らがそこを守っているとも書かれている。」

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チベット・コード 第二章 女の子の秘密 2

張立が何かを思い出したかのように口を挟んだ。

「あー、思い出した。そうだ。俺、大昭寺に金像を見に行った。」

徳仁翁は言った。

「古籍の記載によると、釈迦牟尼の等身大の金像は純金で、当時、釈迦牟尼の8歳の等身大の金像を運ぶのに牛18頭が必要だったとある。想像してみなさい。これほど貴重なものがチベットに入れば、どのようなものでも平凡なものになってしまう。この金像は当時のチベット地区で最も神聖で最も高貴な法器になったのだ。大昭寺、小昭寺以外に四つの寺を建造してやっと釈迦牟尼にお供えするものを収蔵することができた。そしてランダマが仏教弾圧をやった時、彼もこの寺が普通の寺ではなく、中の宝物は数えきれないことも知っていた。幸いにも寺の僧たちはいち早くこの情報を入手したため、ランダマが兵を率いて来る前に、寺の宝物はすでに他の場所へ移し、岩の下に深く埋めてしまった。これが有名な岩蔵だ。寺の僧たちは死んでも宝物の隠し場所を言わなかったので、ランダマは怒りに駆られて四方廟を焼いてしまった!」

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チベット・コード 第二章 女の子の秘密 1

張立はこの時も徳仁翁の言葉に引きつけられた。チベット密教にも暗黒時代があったということを初めて知った。方新は黙って肯いたが、彼も42代チベット王の仏教弾圧の物語とランダマの出自について聞き知ってはいたが、徳仁翁が話した完全な牛が転生して仏教を弾圧したという話は知らなかった。

徳仁翁は続けた。

「我々チベット密教はランダマのせいで、発展期が前期と後期に分かれ、前発展期には教派の別はなく、ただ仏教とボン教の争いがあるだけだった。仏教弾圧のせいで伝承内容に違いが出て、そのため多くの分派を生んだとも言える。」

徳仁翁は皆の焦りの眼差しを見て、微笑んで言った。

「慌てなくてもいい。これから私は皆にまず四方廟の話をしようと思う。最初は四方廟の建立について話そう。大法王ソンツェンガンポ王は、民を教化するため、仏教の導入を考えた。ネパールと唐朝の両国に仏教の導入を要請した。同時に両国と姻戚関係を結ぶことを求め友好の意を示した。最終的にはネパールの尺尊公主と唐朝の文成公主がチベットに嫁いだ。二人の公主は大量の仏典、書籍、教義と関係のあるすべての法器を携えていた。さらに重要な事は釈迦牟尼の8歳と12歳の等身大の金像も公主たちとともにチベット入りした。これらを供えたのが大昭寺と小昭寺だ。」

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チベット・コード 第二章 ダワヌツォの智者 15

徳仁翁の座った様子は端正で、人そのものが荘重とも言え、そのため皆もその影響を受けて、雰囲気が厳粛な感じになった。

徳仁翁が言った。

「このことは、仏滅大弘災と関係がある。」

方新も卓木もラバも同時に「あっ!」と言った。それぞれ表情は違うが、何かに気づいたようだ。

やはり徳仁翁は言った。

「チベット密教は代々大法王が支持に拡大してきたもので、徐々に広まっていったわけだが、42代ランダマ王の即位後、仏教弾圧が起き、仏典の翻訳も禁止し、寺院を焼き、仏像や経典を壊し、僧を殺し、我がチベット密教は暗黒時代を迎えた。ランダマが仏教を弾圧したのには理由があった。ネパールのブダで仏塔を作った三兄弟がいて、仏塔が完成した際、回向を行った。三人とも異なる願いを持っていたため、それぞれチソンデツェン、パドマサンババ、シャーンタラクシタに生まれ変わった。そして彼らは苦しみながら働いている牛に回向するのをうっかり忘れてしまったため、牛が怒り牛は彼ら三人が法を広める時に、必ず邪魔をするという誓いを立てた。そのためランダマの頭頂には牛の角のような突起物があり、ランとは牛の意味で、ダマは転生、つまり牛の転生という意味だ」

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チベット・コード 第二章 ダワヌツォの智者 14

この慈愛に溢れた老婦人は長いあいだ、大きな我が子を見つめていた。顔には穏やかな微笑をたたえて。それは満足の笑みであり、明らかに彼女が今の自らの生活に満足しきっていることを表していた。理由は分からないが、張立はこの朴訥なチベットの老婦人の顔にいつも母の面影を重ねて見ていた。母は故郷で一日中、一生懸命働いており、苦労を重ねた顔には早々とシワが刻まれている。母の微笑みも同様に幸福感と安心に満ちていた。自らはもう二年も実家に戻らずずっと静かにこの厳寒の高原を守っている。張立は知っている。母が遠くから深く自分のことを思っていることを。ちょうど自らが母を思っているように。

この時、方新はすでに心の中の疑問を口に出していた。徳仁翁はチベット服の端を手入れしながら言った。

「それは秘密だ。もし私も子供の時から菩提祖心経を暗唱してなかったら、完全にはそれを理解できなかったろう。そしてみんなにその答えを説くこともできなかったろう」

方新は、菩提祖心経がポタラ宮のニンマ古経の中に隠された、卓木強巴の家の家伝の至宝であることを知っていた。

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チベット・コード 第二章 ダワヌツォの智者 13

方新は聞くとすぐ逆に疑問が膨らんだ。心中密かに

「布曲寺?サムイエ寺のことではないのか?サチラカンとは一体どの寺でどこにあるのだ?」

方新が卓木強巴に目をやると、卓木強巴も眉間にシワを寄せて、記憶の海を探っている最中のようだ。

ラバという下僕までも、徳仁翁の言う寺の名称に困惑した、これらの名前は徳仁翁がいままで一度も話したことがないものだと。ただ張立だけがそんなものには興味がないというふうに立っていた。彼はチベットは日が浅く、チベットの歴史や文物、古跡などはもっと理解が浅く、彼はずっと卓木強巴の母ー梅朵を見つめていた。

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チベット・コード 第二章 ダワヌツォの智者 12

徳仁翁は笑いながら、左指で自分の眉間を指し、続いて胸口で印を結ぶことで、方新が知恵者であることを表しながら言った。

「現在のいわゆる四方廟はすでに後代の人々が先人の遺した詩集や歴史書から得た曖昧な概念で、ただチベット密教ニンマ派の教義の中にのみ、このような名称が残っているにすぎない。そのためその後にできたカギュ派もサキャ派なども根拠が弱いと言い、その四方廟が存在するという説をすでに捨て去ってしまった。そしてニンマ派の四方廟という言葉の語源はボン教にあり、そのため他の教派がこの説を受け入れられないというわけだ。事実上、我々の祖先が言う四方廟は、大法王が悟りを得て、教義を広めた際、聖山四面の四つの廟に留まったわけだ。法王は極東、極西、極南、極北という言い方を取らず、仏教の教義に従い、卍の折れ曲がる所を採用した。ニンマ派の記載では、それぞれタンルカンブ(当惹貢布)、ドゥグラカン(徳格拉康)、ベンリザンソン(本利蔵松)、サグラム(色果拉姆)と呼ぶ。私の推測ではこの四つの名称は西北の●真格傑寺(●は糸へんにヰ)、西南の格薩拉康寺、東北の布曲、東南の色吉拉康を代表している。そしてグーバ族が代々守護してきたのは、その正統四方廟なのだ。」

 

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チベット・コード 第二章 ダワヌツォの智者 11

方新の心の中にある疑念を見抜いた徳仁はそれに解説をした。 「我々の菩提祖心経に、グーバ族で墨に近づく者は黒くなり、大悪魔である賛魔の奴隷となり、吉祥天母に懲らしめられ、悪魔城を守らせられるとある。伝説ではあるが、その目的は世の人々を教化することにある。だがグーバ族の真の身分は四方廟の守護者であり、最後の一つ極南廟を見守る者だ。村の祭祀や儀礼は代々受け継がれており、彼らは唯一の南方聖廟への入口を知る者たちなのだ。だが教義は厳しく、いかなる者が南方聖廟に近づくことを禁じておる。そしてその不動明王咒が廟の前の守護神獣の体の上に刻まれている」

方新が聞いた。

「ですが、本当に四方廟は存在するのですか?私の知るところでは、四方廟のそれぞれの位置関係はきれいなシンメトリーにはなっておらず、建てられた年代もまちまちで、これらを一つのものとしてまとめて考えるのは難しいと思います。」

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