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上海の風上海の文化や歴史の紹介
October 07 YOの神様 - 乙酉太歳将祟大将軍城隍廟の中をさらに進むと太歳の神、六十柱が列んでいる。なぜ六十なのか?六十干支と対応しているからだ。六十干支とは甲子から乙丑、丙寅というふうに十干と十二支を組合せたもの。甲子園も1924年の甲子の年に創られたためこういう名前になった。早速YOの太歳を探す。YOは2005年の乙酉年生まれ。左側奥に酉年の太歳神たちが鎮座しておられた。お名前は乙酉太歳将祟大将軍。両手にそれぞれ先端に鶏の頭を象った棒を握っておられる。お隣の太歳神は御自身で鶏頭を冠っておられる。本来の厳かさと可愛らしさがミックスされて独特の雰囲気を醸し出されている。因みに私の太歳神は甲辰太歳李誠大将軍とある。竜年なので竜の被り物でも纏っておられるかと思ったが残念ながら普通のコスチュームだった。 October 06 上海の守護神-秦裕伯 十月一日から国慶節休暇に入った。いつもなら旅行に行くのだが、YOがまだ小さいため上海市内をぶらつくにとどまった。上海動物園、共青森林公園、城隍廟にYOを連れて行った。動物園には今までも数えきれないほど来ていたがどうしてもYOUに本物の虎やライオン、象を見せたかった。けど実際に虎やライオンを見たYOの反応はイマイチ冷やかだった。それよりも1元を入れて動きだすおもちゃの自動車を見て興奮してた。
森林公園に行ったのもYOに少しでも自然に触れてほしいという思いで連れて行ったのにYOはどこにでもあるような滑り台やジャングルジムに夢中になってた。
でも最後に行った城隍廟ではすごくはしゃいでいた。僕自身もいろいろな発見があって面白かった。城隍廟とはその土地の守り神を祀る神聖な場所で、ここでは元朝の頃の上海県の進士(科挙の合格者)、秦裕伯という人物が死後、上海の守り神として祀られていた。向かって右には彼の両親が、左には妻が祀られている。説明を見ると、この秦裕伯は元朝が滅びて明朝になってから皇帝の明太祖(朱元璋)により翰林院(学者などが詔勅の起草を司る官庁)に招かれたとある。彼の死後、その死を惜しんだ明太祖は
生不為吾臣、死亦衛吾土
生前我が臣下ではなかったが死して我が国を護っている
という言葉を送り、これにより秦裕伯が上海の守護神になることが決まったようだ。
YOと一緒にこの上海の守護神の前で我が一家の上海での生活の無事をお祈りりした。さらに進むと今度は関羽の像が祀ってある。右脇に彼の息子、関平が、左脇に忠義の部下、周倉の像がある。どうやら道教のこうした廟では生前において偉大な功績のあった者を神として祀る慣わしのようだ。
March 17 春の到来-白玉蘭の開花嫁さんとYOを連れてカルフールに買い出しに行った。途上の小区に白玉蘭が咲いている。実際には2月の終りに春になったと言われていたが
私は白玉蘭を見ると春の到来を感じてしまう。 February 04 方さんが辞めた方さんとは我が家のベビーシッター。9月からうちで働いてくれていたのだがこの2月に辞めてしまった。
残念だ。彼女は非常に有能で、YOをたった一人でみてくれていた。どんなにYOが泣き喚いても暴れても上手にYOの注意をそらしたりしてじつに
うまくYOの面倒を見てくれていた。今後のことはまだ話し合っていないが頭の痛い問題だ。
January 02 YOの誕生日-抓周あけましておめでとうございます
旧年中はお世話になりました
本年もよろしくお願いします
まず12月24日のYOの誕生パーティのことを書きます。この日は遠路はるばる私の両親が日本から駆けつけてくれた。そのためYOのために中国で伝統的に行なわれている抓周の儀式と日本古来の餅背負いの儀式を行なった。
抓周とは満一歳の誕生日に子どもの前にいろんな物を並べて、それを寿星(誕生日の主役)である子どもに選ばせその子の将来をうらなうというもの。中国古典文学の最高峰ともされる紅楼夢では、主人公の宝玉がこの抓周で人形を選んだのを父が見て激怒するという場面が有名だ。父親としては官吏を表す印鑑や朱肉を取ってほしかったのだろう。
さてうちで挙行した抓周では20余りの物をYOの前に並べた。テニスラケット、ラジコンカー、計算機、印鑑、中国語の辞書、現金、キャッシュカード、モノサシ、絵、香水、衣服、デジカメなどなど。それぞれが業種を象徴している。最初、YOに這わせて取りに行かせるとラケットを取ろうとしたが結局取らず最初に選んだのはラジコンカーだった。次ぎがデジカメ、それから計算機の順に手にとった。YOが何かを取ろうとするたびにギャラリーがどっと沸いた。一番ヤキモキしたのはかくいう私と嫁さんのニ人だったが。。(笑)
抓周の分析結果は将来は自動車関連業界か金融方面に進むのではないかということで落ち着いた。また選んだものが全て電子機械だったのでその方面の可能性もあるかな。まこれはおみくじみたいなもので一種の儀式にすぎない’事はいうまでもないことだけど。。
それと補足ですがいまYOは7歩ほど歩けるようになりました。また童子功のせいか胸囲が平均より3センチほど大きかったです。
December 13 上海の風を書いて早いもので1年が経った。そして同時にYOももうすぐ満1歳の誕生日を迎える。YOとともに上海の風も成長しているようだ。YOの成長はこのブログよりも目覚しいものがあり、昨日は日本語で言ったことをちゃんと分かっているようで驚いた。YOがぐずりだした時に小饅頭というマルボーロみたいなお菓子をやると泣きやむのだが、その時嫁さんがYOにマルボーロを持たせて
給妈妈
というと嫁さんにそのお菓子を渡した。凄い、と思い今度は、
じゃこれを猫にやって
と言うと
猫の書かれた絵に食べさせる素振りをした!ほかにも魚やベビーシッターにやってと試すと全部理解していた。以前は中国語しか分からないと思っていたが日本語もかなり分かるようでほっと胸をなで下ろした。最近もいろいろ忙しくブログの更新がなかなかできない日々が続いている。しかし確実にいろんな面でよくなっていっているのは確かだ。 November 22 中国のコトワザ-書中自有顔如玉先週、虹梅路を歩いていたらビラを撒いている女性からマッサージ店のパンフレットを受けとった。玉容顔生活館とある。玉容顔とは顔が玉のように美しくなるという意味だろう。そういえば中国にこんなコトワザがあった。
書中自有黄金屋 本の中にはもともと黄金の家があり
書中自有顔如玉 本の中にはもともと玉で造ったような容貌の凄い美人がいる
つまり一生懸命に勉強していればいつか豪邸に住んで凄い美人と一緒になれるよ、というような意味。玉はたまではなくぎょくと読み、宝石の一種。周囲に勉強に身が入らない人がいたらこのコトワザを教えてやればいい。
November 19 徒然なるままに-一番勇敢な人と上海蟹ひさびさの休日にYOを連れて嫁さんと外に出た。YOは人見知りが全然なくエレベレーターで見知らぬ人と乗り合わせても大きい声でエーっとか話しかけている。ほとんどの人はYOに挨拶をかえすのでここ数ヵ月で知り合いが一気に増えてしまった。同小区内でYOがちょっとした有名人になりつつある。YOの成長ぶりを
一天一個様 毎日全然違う
とある人が言ってたが本当にそう思う。
YOを連れ祥徳路を歩いていると路上で蟹が売られている。安いのは崇明島(上海)の500g16元(約270円)から、高いのは太湖(無錫)の500g88元(約1400円)までいろいろだ。大きいほど高くなる。とりあえず昆山(蘇州の手前)でとれる蟹を5匹買った。500g22元。蟹を食べるのは10月に出回りだしてからこれで7回目になるかな。以前はそれほど美味しいとは感じなかったが最近やっとよさがわかりはじめた。上手にむけるようになったことも関係しているだろう。鲁迅は蟹の奇怪な容貌から
一番勇敢な人は蟹を最初に食った人だ
と言ったそうだが、改めてよく見ると本当にそうだなと感心してしまう。もし元々蟹を食べるという習慣がなかったらけして最初にそれを食べてみようとは思わなかったにちがいない。 November 06 中国で暮らすと-石灰の詩(于謙)私はもともと長崎出身の田舎者なのだが、東京に出て来てから人間不信のようになってしまった。いま上海に住んで8年になるが仕事や趣味を通じ多くの日本人の方々と接触をもち付き合いを重ねていく過程で人間不信がさらに強くなってしまった。特に仕事において。以前、某翻訳企業で仕事をしている時も私は心を開いているつもりだった仕事仲間(N)に裏切られた。その時は別の方から非常にフォローしていただきこの方(Cさん)にはいまだに非常に感謝している。CさんによるとNはほかにもいろいろ問題行為があったそうだ。そしてCさんもこのNのいる職場では働けないとはなしていた。
石灰詠
于謙
千錘万凿出深山
烈火焚焼若等閑
粉骨砕身揮不怕
要留清白在人間
石灰が詠む
深山から掘り出され
烈火の炎に身を焼かれ
粉になるのも恐れない
この世に潔白を残せるならば
これは明の政治家、于謙の詩。彼も多くの功績を立てながら最後は皇帝により殺されてしまう。おそらく中国の日本人の中にも彼のように正直ゆえに損をしている人が多くいることだろう。そういう人たちのためにこの詩を贈ります。
October 29 明日は重陽節-九月九日山東の兄弟をおもう明日は重陽節。といってもそれほど詳しいわけではない。広辞苑によると五節句のひとつとある。五節句とは正月(1月1日)、ひな祭り(3月3日)、端午の節句(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽の節句(9月9日)のこと。日本にいる時、正月やひな祭り、端午の節句、七夕はお祝いした記憶があるが重陽の節句は憶えがない。広辞苑には宮中の観菊の宴とある。つまり一般庶民は関係ないのかな?
九月九日憶山東兄弟
王維
独在異郷為異客
毎逢佳節倍思親
遥知兄弟登高処
遍挿茱萸少一人
故郷を離れ一人暮し
重陽節の時は特に家人を思う
今頃きっと兄弟たちは腰に茱萸をさし高台に登り
私がいない事を残念がっているだろう
周囲の中国人に重陽節について聞くと老人の祭りとか言っている。また特に何かをしたりすることもないようだ。
明日、できれば私も腰に茱萸をさし高台に登り、日本の友人に思いを馳せたい。
October 27 古代人を偲ぶ古代人たち-駱賓王の易水送別古代人を偲ぶ古代人たち、けっこういろいろある。今回は駱賓王(640-684)という唐の詩人の詩を紹介しましょう。名前のせいでずっとどっかの王様かと思っていたが全然違う。たまたま名前に王という字があるだけのようだ。また初唐の四傑の一人でもある。
易水送別
駱賓王
此地別燕丹
壮士髪冲冠
昔時人已没
今日水犹寒
易水のほとりで燕丹と別れ
荆轲の髪は怒りで逆立つ
彼はもういないが
易水はいまも冷たい
戦国時代、強大な秦国は燕国を攻め滅ぼそうとしていた。この詩は燕国の王子、燕子丹が刺客として荆轲を秦の始皇帝暗殺に送り出す場景を唐の駱賓王が思い出し詠ったもの。暗殺には失敗し荆轲は膾のように斬られてしまう。この詩からは昔日の英雄はもういないのに易水は変らないと詠い、人間の小ささと自然の大きさが迫ってくる。
October 24 古代人を偲ぶ古代人たち-女流詩人、李清照と項羽前回、古代人を偲ぶ古代人を書いた。今回、同様の詩を思いついた。宋の女流詩人、李清照の絶句。
絶句
李清照
生当作人傑
死亦為鬼雄
至今思項羽
不肯過江東
(項羽は)生きては豪傑となり
死してなお英雄となった
いまもまだ項羽を思う
逃げずに自刎した彼を
これは宋(960-1279)の李清照(1084-1151)が秦(前221-前206)末の武将、項羽(前232-前202)を思う詩。項羽は秦の暴政により苦しむ人民を救おうと立ちあがり、その超人的な戦闘力により多くの戦いで勝利するも最後は垓下で劉邦に敗れる。その際、川べりに追い詰められた項羽は船で逃げようと思えば逃げられたのだが、ここで逃げては決起した時に江南から連れてきた8000人の若者の父母に会わせる顔がないといい自刎してしまう。李清照の詩の、死してなお英雄となった、とはこの行為を指している。同時に、彼女の生きた宋の時代、異民族の金に侵略され南方に逃れ南宋を建てた皇帝の不甲斐無さを諷刺している。
October 18 古代人を偲ぶ古代人たち-杜甫の八陣図この間、上海で中国現地の小学校に行っている小5の女の子に国語の教科書を見せてもらった。一体一年でどれぐらい詩を憶えるのか知りたかったからだ。どうやら1学期で十数首、1年で二十数首憶えるようだ。つまり小学校で百数十首の詩を憶えるということだ。うーん大変そう。彼女の教科書にこんな詩があった。
八陣図
杜甫
功蓋三分国
名成八陣図
江流石不転
遺恨失呑呉
三国が鼎立する局面で(諸葛孔明の)功績は最大だった
また八陣図で呉の陸逊を退け名を揚げた
功績と名声は永遠に残ったが
惜しむらくは劉備が呉との連合半ばで亡くなったことだ
八陣図は三国志での三国による抗争も終盤に差しかかった頃、蜀が呉と争いになった際、呉の陸逊の追撃を孔明が自ら築いた八陣図という不思議な迷宮に誘いこみ打ち破るときに出てくる。休門、生門、傷門、杜門、景門、死門、驚門、開門という奇門遁甲の理論を応用して建造した一種の迷路のようなものらしい。いまでもこの八陣図が残っているという。私の想像ではイギリスのストーンサークルのようなものだったのではないかと思う。
またこの詩の面白いのは古代中国人がさらに古い時代の中国人をしのんでいる点だ。唐(618-907)の杜甫が三国時代(220-280)の諸葛孔明に思いを馳せ、さらに、今、2006年に生きている私がそういう杜甫が書いた詩を見て唸っている。この手の詩では蘇東坡の赤壁賦が有名だ。
天高く物思う秋に-張籍の秋思最近は子育て、仕事の両面でいろいろ厄介な出来事が発生しとてもブログを書く気になれなかった。それでも秋が深まるにつれて一つの詩が脳裏をかすめだし筆をとった。
秋思
張籍
洛陽城里見秋風
欲作家書意万重
復恐匆匆説不尽
行人臨発又開封
洛陽にも秋風が吹きはじめた
家族に手紙でも書こうかな
書きたい事が多すぎて
思わず出す前にまた開封してしまった
手紙を出す直前に書き忘れた事を思い出しおもわず封をした手紙をまた開封してしまう。こういう経験は私自身も何度か経験しており、同様の経験がおありの方も多いのではないだろうか。
こんな詩を読むたびに古代の彼らとの距離が一気に縮まるようだ。
September 27 徒然なるままに-禅心が千千に乱れる時は仏典でも読んでみる。中国語ができるようになって仏典が中国語だったことに気がついた。といっても古代中国語だが。
仏教はもともとインドで生まれた宗教だが、どうやら中国に伝ってから独自の発展を辿ったようだ。なかでも禅は中国仏教の最高峰とよく言われる。
中国では有名なのに日本ではあまり知られてない禅僧に慧能がいる。彼は禅を中国に伝えた伝説的人物、達磨から数え六代目なので六祖とも言われる。この慧能が五代目の弘忍に弟子入りする。ある日、弘忍は弟子の悟りのレベルを試すために弟子たちに詩を書かせる。弘忍の一番弟子の神秀は
身是菩提樹
心如明鏡台
時々勤払拭
莫使惹塵埃
この身は菩提樹のようにきよらかで
心は明るい鏡台のように澄んでいる
いつも汚れないように拭いて
塵や埃がつかないようにしよう
という詩を書く。他の門弟はこの詩を褒め称えるが弘忍は神秀のレベルがまだまだと思う。そして慧能も神秀がまだ悟りに達してないことを見抜き、その詩のわきにこんな詩を書いた。
菩提本無樹
明鏡亦非台
本来無一物
何処惹塵埃
菩提は樹ではなく
明鏡も台ではない
もともと何もないから
塵や埃で汚れるわけがない
弘忍はこの詩を見て慧能がすでに悟っていることを知ったという。
最近はいろんな事があって心が不安定なので少し慧能の詩でも読んで精神統一しよう。
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